さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

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埋没林について

埋没林について

三瓶小豆原埋没林はどうして発見されたのですか?

 
 小豆原地区で立ったままうもれた木がたくさん見つかり、それが縄文時代の森の一部とわかったのは1998年でした。
それより前にも、地元の人たちは地面の下に立木があることを知っていましたが、それがどういうものかは分かっていませんでした。1983年に水田の工事が行われた時には、2本の大きな立木がほりだされましたが、そのまま切られて注目されないままでした。
 7年後、松井整司さんが工事中に立木をほっている時の写真を目にしました。松井さんは高校の先生で、三瓶火山を研究した人でもありました。三瓶火山の歴史に詳しかった松井さんは、写真を見てふん火で森が埋もれていると考えました。先生を定年退職してから、松井さんは地層などの調査を行い、小豆原地区の地下には火山灰が厚くたまっていることなどを明らかにしました。
 松井さんの調査によって森が埋もれていることがほぼ確実と考えられるようになり、三瓶自然館の改修計画の一部として島根県が1998年に発掘調査を行い、埋没林が発見されました。

埋没林の木はまだ生きていますか?

 
 木の皮まで残って立っている埋没林の木は、生きているようにも見えます。生きたまま土砂の中に埋もれたためですが、埋もれて間もなく枯れており、生きていません。

埋没林のスギは、生きている時はどれくらいの高さでしたか?

 
三瓶小豆原埋没林で見つかった木の多くはスギです。スギは日本では最も高く育つ木で、最大50m前後になります。
 埋没林の木は幹の上の方が残っていないので、正確な高さは分かりませんが、幹の太さを今生きている木と比べると、高さを推定できます。
 三瓶山の近くにあるスギでは、大田市三瓶町上山に「本宮神社の大杉」があり、雷で折れてしまう前は高さ42mありました。このスギは太さ9mです。飯南町の由来八幡宮のスギは太さ7.6mで高さ42mです。その他、島根県内に高さ40mを超えるスギが何本かあり、それらの太さは5.5~9mです。
 埋没林のスギは太さ7mを超えるものが多く、どの木もまっすぐに育っています。この太さと木の形から考えると、高さ40mは超えていたでしょう。
 また、今生きている大きなスギは1、2本が単独で生えているものがほとんどで、雷や強風で折れる可能性が高いものです。40mを超える木は、多くの場合幹の上が折れています。一方、埋没林の場合は同じような大きさの木が何十、何百と集まっており、互いに守り合うことで高く育つことができたので、中には50mに届く木もあったと思われます。

どうして4000年前の木とわかったのですか?

 

三瓶小豆原埋没林がうもれた年代は、「放射性炭素年代測定法(C14年代測定法)」で調べられました。
 これは、木に含まれる炭素から年代を調べる方法です。
 炭素は、物質を作る小さな粒「元素」の一種です。炭素元素にはわずかに重さが違うものがあり、その中には時間がたつと自然にこわれて他の元素に変わるもの(炭素14)があります。
 生きている木は、大気から二酸化炭素を取り込んで幹や葉を作ります。作られたばかりの幹や葉に含まれる炭素14の量は大気と同じ割合です。
 ところが、木が枯れると新しい炭素が取り込まれなくなり、炭素14はこわれて少しずつ減っていきます。炭素14は約5700年で元の量の半分になる(この期間を「半減期」といいます)ことがわかっていて、木に含まれている炭素14の割合を調べることで、その木が生きていた時からどれだけ時間が経ったかを計算できます。
 三瓶小豆原埋没林では、発見直後に行った測定で「3500年前」という結果が出ました。これは測定で得られた計算値で、常に誤差を持っていることにくわえて、計算値と実際の年代には最大数百年の差(ずれ)があることがわかっています。1990年代までは、計算値をそのまま使うことが多かったのですが、その後は実際の年代に当てはめた数字を使うことが多くなっています。発見直後からしばらくは、「埋没林は3500年前にうもれた」と紹介していました。
 その後、炭素14の測定を何度も行い、計算値は「3700年前」が正しいことがわかりました。これを実際の年代に当てはめると約4000年前になります。
 さらに、年輪を使った年代測定法と組み合わせることで、より詳しい年代がわかるようになってきています。三瓶小豆原埋没林についても試験的にこの方法が行われ、紀元前2021年、約4040年前にうもれたと推定されています。

埋没林の木は木材として使えますか?

 

見た目は生きているようにも見える埋没林の木ですが、強度はかなり弱くなっています。それは、地中に長い間うもれている間に、木の成分が地下水に溶け出してしまったためです。
 強度が弱いため、普通の木材と同じような使い方はできませんが、強さが必要ない木工細工などには使うことができます。昔から三瓶山周辺では地下からスギなどが掘り出されることがあり、木工などの材料として売られたことがありました。この木を部屋の飾りに使っている家があると聞きます。
 秋田県などでは、同じようにほり出したスギを「神代杉」と呼び、細工用の高級木材としてあつかわれています。
 三瓶小豆原埋没林では、スギ以外の木も掘り出されています。ケヤキなどの広葉樹は乾燥するとひび割れて変形してしまうため、木材としてはほとんど利用できません。一方で、割れずに縮んだ部分はたいへんかたくなるので、小物の材料には使えそうです。

三瓶以外にも埋没林がありますか?

 

埋没林として報告されているものは全国で40ヶ所程度あり、記録が残されいない小規模なものもあると思われます。三瓶火山に関係するものだけでも、約5万年前の「横見埋没林」(出雲市)のほか、三瓶小豆原埋没林と同時に埋もれたものが静間川と三瓶川の下流、神戸川の下流で確認されています。
 全国にはさまざまな埋没林がありますが、三瓶小豆原埋没林のように長く太い幹が立ったまま残っているものは他にありません。世界的にも珍しく、比較は難しいものの「世界最大級」と言えそうです。
 全国でよく知られている埋没林としては、富山県の魚津埋没林があります。1500~2000年前のスギ林が地中に埋もれ、さらに富山湾の海底に沈んだもので、多数の根と倒木が発見されています。日本で最初に埋没林として報告されたものであることに加えて、大地の歴史を物語る資料としての貴重性から、特別天然記念物に指定されています。
 宮城県の富沢遺跡の埋没林も興味深いものです。ここでは約2万年前の氷期の森が、旧石器人の生活の痕跡とともに見つかっています。魚津埋没林と富沢遺跡は、三瓶小豆原埋没林と同じように展示施設があって公開されています。

埋三瓶小豆原埋没林の森には人が住んでいましたか?

 

発掘調査で縄文時代の地面までほった範囲は限られますが、そこでは土器や石器など人の生活を示すものは見つかりませんでした。
 この森はとても高い木がたくさん茂り、日中もうす暗い場所だったと考えられます。人が住むような場所ではなかったでしょう。しかし、埋没林から川沿いに下った日当たりが良い場所には、縄文人が住んでいてもふしぎではありません。三瓶山の東側にあたる飯南町の神戸川では、川岸の少し開けた場所から縄文時代の遺跡が何カ所も見つかっています。埋没林がうまったときの火山灰の下からも土器や石器が見つかっており、これを使った人たちは埋没林のような森を見ていたことでしょう。
 今後、三瓶川の川沿いや大田の平野部でも三瓶火山のふん火でうもれた遺跡が見つかるかも知れません。

埋没林で見つかったスギやこん虫は今と同じ種類ですか?

 
見つかっているものは、形の特徴など今のものと同じです。
 約4000年前から今までの間に絶滅した生きものもありますが、ここでは絶滅種は見つかっていません。
 生き物が大きく入れ替わったり姿かたちが変化(進化)するのは気候などの環境が大きく変わる時です。埋没林の時代から今までの間は暖かい時代が続き、生き物の大きな入れ替わりはなかったようです。
 また、4000年という時間は生き物が変化する時間としては長くないのでしょう。

埋没林の木が生きていた時代は寒かったのですか?

 

埋没林の木のほとんどは年輪の幅がとてもせまく、今の植林地などで育つスギに比べると育つ速さが半分以下です。しかし、それは気温が低かったためではないようです。
 約1万年前に寒い氷期が終わってからは、基本的には暖かい時代が続いています。ここ数十年は過去1万年間で最も気温が高い傾向にあるとされますが、平均気温で1~2℃程度の差です。埋没林の木が生きていた4000~4500年前頃は、今ほど暖かくはなかったかも知れませんが、木の生長が遅くなるほど寒くはありませんでした。
 平均気温2℃の違いを考えてみると、それは平地と標高400m地点の差くらいです。大田市で例えると、大田町と三瓶町の差くらいですが、それぞれの場所でスギの育つ速さに大きな違いはないでしょう。木の生長速度は、わずかな気温差よりも日当たりや栄養分の違いが大きく影響すると考えられます。 

埋没林の木は出雲大社に使われましたか?

 

出雲大社の境内では、鎌倉時代の社殿に使われた巨大な柱が見つかっています。三瓶小豆原埋没林のスギと同じような太さのスギを3本束ねて1本の柱にしたものです。
 大きなスギを使った点では共通していますが、出雲大社の柱が約800年前に対し、三瓶小豆原埋没林は約4000年前と、時代が大きく違い、直接の関係はありません。縄文時代には今のような社殿を持つ神社はないので、時代をさかのぼっても三瓶小豆原埋没林のスギが出雲大社に使われたことはありません。
 しかし、三瓶小豆原埋没林があることで、昔の島根県に大きなスギが生えていたことは確かです。約1300年前にかかれた「出雲国風土記」には、出雲大社に使う木をとる場所として出雲市佐田町の地名が出てきます。三瓶小豆原埋没林と比較的近く、地形の条件が似た場所なので、埋没林のような大きなスギが生えていた可能性が十分にあります。
 なお、出雲大社で見つかった柱のスギは6本ありますが、どれも年輪の幅がとても広く、埋没林のスギとは異なります。埋没林のように奥深く暗い森で育った木ではないようです。

三瓶山は死火山ですか?

 

三瓶山は火山ですが、文字や言い伝えによるふん火の記録はなく、最も新しいふん火で確実なものは約4000年前です。
 昔は、ふん火の記録がない火山を「死火山」と呼びました。1960年に気象庁がふん火の記録がある火山を「活火山」と定め、それ以外の「火山」と区別しました。この時点で「死火山」という区分はありませんでしたが、その後も一般的にはこの言葉が使われていました。そのため、「三瓶山は死火山」と聞いて育った人は少なくないようです。
 現在、1万年間より後にふん火した火山が「活火山」と定められており、三瓶山もこれに指定されています。
 「休火山」という言葉もありましたが、これも今は使われず、おおむね200万年前より新しいものを「火山」として、防災上の区分として活火山が指定されています。

三瓶山はまたふん火しますか?

 

確かなことはわかりませんが、いつかまた噴火する可能性が高い火山です。
 三瓶火山のように何度もふん火する火山の寿命は50万~100万年が一般的とされます。三瓶火山は約10万年前にふん火活動を始めて、数千年から数万年の休みをはさみながらふん火をくり返してきた火山で、まだまだ「若い」と言えます。今はひとつの休み期間なのでしょう。
 なお、地震計による観測では三瓶山の直下でマグマの動きは全くなく、ふん火につながるような熱いマグマはないようですから、突然ふん火する心配はなさそうです。

大昔の三瓶山は今より高かったのですか?

 

三瓶山は、男三瓶山、子三瓶山、女三瓶山、孫三瓶山などが輪になって並んでいて、中心に室ノ内というくぼ地があります。このような形になった理由として、大昔にはひとつの大きな山だったものがふん火でこわれ、残った部分がそれぞれの山、中心の噴火口が室ノ内と考えられていた頃がありました。こわれる前の三瓶山は、鳥取県の大山にもひけをとらない2000m近い高さの山だったというのです。確かに、室ノ内はかつてふん火を起こした火口らしく、そこから吹きだされた火山灰がつもってできた地形もあります。
 しかし、それぞれの山は、こわれた残りにしては整った形で、別々の火口から吹き出た溶岩でできたと考える方が無理がないと思われます。三瓶山のふもとには、大きな山がこわれて吹き飛ばされたり、流れ下った土砂が見あたらないことも不自然です。さらに、最近の研究では溶岩のわずかな違いから、男三瓶山、女三瓶山と子三瓶山、孫三瓶山のグループに分けることができ、それぞれが別の火口から出た溶岩と考えられるとされています。
 どうやら、空高くそびえる「大三瓶山」はなかったようです。

埋没林の木は木材として使えますか?

 
Q.三瓶山の山頂で水が湧くのはなぜですか?
A.男三瓶山の山頂近くに「銀明水」というわき水があります。今はわずかに水がにじみ出る程度ですが、50年ほど前は飲める量が湧いていたそうです。山頂から登山道を西に行っても、常に水がたまっている場所があります。
 山の上で水がわき出ているのは不思議な気がします。いずれの場所も、一番高い部分に比べると約20mほど下った場所です。男三瓶山の山頂一帯は広くなだらかで、わき水地点より上にかなり広い範囲の土地(地盤)があります。約20m分の高低差の範囲に水をたくわえる余地があり、岩や土砂のすき間にある地下水が出てきているのです。
 三瓶山の地盤は、岩も土砂の部分もすき間が多く、降った雨がすぐにしみこみ、地下にたっぷりたくわえられます。地下にしみこんだ水の流れはとても遅く、山頂の近くでも地下にはある程度の量の水が常にたくわえられていると考えられます。その水があるおかげで、晴天が続いてもわき水があるのです。

三瓶火山と森田山の関係は?

 

日本の火山の一覧には、三瓶山の北にある森田山と多根要害山も「森田山火山」としてのっています。
 ひとつの火山としても良いくらい近い山が別の火山とされているのは、火山活動の時期が大きく違うためです。
 三瓶火山が約10万年前から活動を始めたことに対して、森田山火山の活動は100万年以上前で、その間、この場所で火山活動はありませんでした。火山は寿命が100万年程度までのことが多く、森田山火山が活動をやめたあと、あらためて三瓶火山の活動が始まったと考えられているのです。
 時代が違うとはいえ、これほど近い場所なので三瓶火山と森田山火山は「親せき」くらいの関係と考えてもいいのかも知れません。

波根西の珪化木は三瓶火山のふん火でできましたか?

 

大田市久手町波根西の海岸には大きな樹木化石があり、「波根西の珪化木」の名で国の天然記念物に指定されています。
 この化石は火山ふん火でうもれた木が石英(水晶)の成分である二酸化ケイ素(SiO2)によって石化したものです。近くに三瓶火山があるので、そのふん火かと考えてしまうこともありますが、珪化木は約1500万年前、三瓶火山は約10万年前からと時代が全く異なります。つまり、無関係なのです。
 約1500万年前は日本列島が形成された時代で、中国山地の奥まで海が入り込んでいたように今とは地形が全く違います。もちろん、三瓶山はどこにもありませんでした。
 この時代には大規模な火山活動がくり返され、大田市は海岸から内陸側までの広い範囲にこの頃の火山がもたらした地層が分布しています。その地層は、福光石などの石材や、さまざまな地下資源ももたらしてくれました。

埋没林には、どこから、どれくらいの人が来ていますか?

 

令和元年度は、年間1万6000人が見学に来ました。そのうち、島根県に住んでいる人は4分の1くらいで、県外から来る人が圧倒的に多いことが特徴です。県外は広島県、岡山県が多く、大阪など近畿地方のほか、関東地方から来る人も少なくありません。

どうして日本遺産なのですか?

 
三瓶小豆原埋没林は、2020年に「石見の火山が伝える悠久の歴史」の一部として日本遺産に認定されました。
 日本遺産は、地域の歴史文化にまつわる物語(ストーリー)を学習や観光に活かすことで、地域社会を元気にし、地域にある自然や歴史の宝物である文化財を守ることを目指す制度です。
 三瓶小豆原埋没林は、他にはない大切な自然の宝物で、多くの人に見てもらい、学習などに活かすことが必要と考えられます。そこで、埋没林を中心的な構成要素として、大田市の自然と歴史を「火山」のキーワードで紹介する物語を組み立て、日本遺産として活用を目指すことになりました。